loader image
itoshinロゴ | ホームページ制作、ロゴデザイン、群馬県太田市のデザイン事務所「ITOSHIN」

「好き」のデザイン

ここ最近「好きな事で生きる」とか「好きを仕事にする」などというフレーズがもてはやされているが、その「好き」とは一体何なのか?この「好き」だが、当人にとっての「好き」の正体が分からないと「好きなこと」をするにもどうしたら良いのか困ってしまうことになる。自分にとっての「本当の好き」を導き出し、明確にするということ、「好きのデザイン」という事は出来るのだろうか?

 

好きの抽象度を上げれば仕事になりえる

「好き」にも色々レベルがあり、「ケーキーが好き」、「旅行が好き」、「アイドルの〇〇が好き」というピンポイントかつ具体的なコトとしての「好き」もあれば、「奉仕が好き」、「仕切るのが好き」、「教えるがの好き」などの概念的な「好き」もある。

どのレベルの好きでも抽象度を上げていく事で仕事になり得る。

例えば、「ケーキが好き」の抽象度を高くしていくと」「甘いものが好き」->「食べるのが好き」->「食文化が好き」、から「食を作る(料理人)」、「食を語る(食の評論家、ライター)」、「食を啓蒙する(食の学者、研究者)」など枝分かれしていく。

なので「好きで生きる」とか「好きな仕事」を決める場合、「好き」の抽象度を上げていく事で道が見える場合もあるだろう。

本当の好きは意識の外にある

さて、その「好き」をどうやって導きだすかだが、自分が何を「好き」なのかハッキリと認識している人は意外と少ないのではないだろうか?

いざ好きな事を自由にやって良いですよ、と言われても困ってしまう人が多いように思う。

そういった場合、やはい「自分は何が好きなんだろう?」と悩む事になるのだろう。

しかし本当に好きな事を「あれこれ悩んで導き出す」という過程に何か違和感がないだろうか?

「好きなことを悩む」といのは根本的に何か違う気がする。

「悩む」とはつまり外からの見え方を気にして悩むのであり、「打算的な考え」が入り込んでいるということになる。その「好き」は「儲かるか?」とか「モテるか?」など「対外的な見え方」を意識して悩んでいるとも言える。

そういう意味で、好きなことを自由に行う天才は「子供」ということになる。子供は、それが好きかどうか意識しないで自然体で行動するからだ。

子供の行動原理は「やりたいから」だ。「好きだから」ではない。

子供がノートに落書きする、先生のモノマネをする、本を読み漁る、プラモデルを作る、ゲームをやる、

こういった行為に打算的な考えが入り込む余地があるだろうか?。大概ただ「やりたいから」が行動原理になっていると思える。

こういった理由から、「子供の頃に無意識にやっていた事」にその人の「好き」につながるヒントがある様に思う。

打算的な考えは周りに伝わる

本当に好きであれば、「モテなくても」「儲からなくても」好きなはずでなのだ。(もしそうありたいのであれば「好き」を極めた後に考えれば良い)

打算的な考え、これを「邪念」と言い換えるが、邪念が先にくる「好き」は他人には直ぐに見抜かれるものだ。

人が好きと思い込んでいる場合でも、

  • その好きを語れない
  • その好きに時間を割けない
  • その好きに投資できない

などの徴候があれば大して好きでない可能性が高い。

「好きなのことを語れず、時間がないを言い訳に好き時間を割かず、好きの道具は取り敢えずの最安値の紛い品で済ませている」

という事であれば大して好きでないという事は誰の目から見ても明白なのだ。

趣味が大事な理由

趣味が「本当の好き」を根拠としたものであれば、これは生きる上で大事なモノとなる。(ただ趣味ですら打算的に取り組む人もいるので全ての趣味が有用ということにはならないが)

好きで行う趣味は邪念が入り込む余地が無いし、人からどう思われようが気にならない。

趣味を究めて、マネタイズする仕組みを考え、ビジネスにする人は大勢いる。

というより未だ無いビジネスの始まりの多くが「趣味の延長」とも言える気がする。

今でこそ当たり前となったインターネット上のコンテンツ、webサイトやウェブサービもwebの黎明期は誰もが半ば趣味で「好きだから」行っていたと思われる。

なぜなら未だインターネットで誰も儲けてなかった(小遣い程度は儲けてたとしても)訳だし、インターネットに詳しくてもオタク的でもモテなかった(可能性が高い)からだ。よって変に「誰かのためになる様に」とか「人類の進化たために」の様な大げさなビジョンは誰も持っていなかったとも思える。

  • 以前はただの趣味だった「プラモデル作り」は、今ではビジネスとして成立している
  • 小さい頃から本を読むのが好きで作家、ライター、ブロガー、なでを生業としている
  • 何でも物を分解して仕組みを確かめるのが好きで、今はプロダクトデザイナー

など、いくらでもあるが全て本当の好き(趣味の延長)を仕事としている例だろう。

「好き」が動機の場合そもそもやる理由なんて考えてない

大人になると何をやるにも「大義名分」とうことを意識してしまい中々行動に移すのが難しい場合もあるだろう。

これも「他人にどう見られるか」を気にしての発想であり、本当の好きを貫くのであればそんなモノは蹴飛ばしてやれば良い。

「〇〇をやりたい。理由は好きだから。」

これが正常であって、その人にとっての信念であり正義なのだと思う。(多少誰かに迷惑を掛けたたり、犠牲にしたとしても後々償えば良いのではないか)

  • クエンティン・タランティーノはなぜ映画監督なのか?
  • ジミ・ヘンドリックスはなぜギターを弾いたのか?
  • ディエゴ・マラドーナはなぜサッカーを始めたのか?

そんな野暮な質問をしたら殴られそうな気がする。「好きだから」に決まってるのだから。

「好き」は人類の進化に寄与する

よく「好きを仕事にするな」とか「仕事と趣味は別」「好きなことを仕事に出来る人はほんの一握り」という事が言われる。

こられの主張をする人たちの言い分は大方「仕事にすると好きが嫌いになる」というモノだ。

しかし、この場合の「仕事」とは多分「労働者(正社員・アルバイト・派遣など)としての仕事」を意味しており英語だと”JOB”なのではないかと思う。

「“JOB”はお金が発生する行為」、「”WORK”は意思に基づく行動」とという感じだろう。

従来人は「好きなWORK」をする事で生計が立つ様に仕組化(マネタイズ)して来たのだ。

まだ誰の役に立つかも分からないし、もちろん金にもならない「好きなWORK」が新たな仕事を生みだし、人類の進化させる原動力となる。

  • インターネットは金にならないオタクの趣味。
  • 物理的なボタンの無いiPhoneなど使い難く流行るはずがない。
  • YouTubeの様な素人の動画投稿を誰が観る?

未だにこんな事を言う人はいないかと思おうが、20年前には多くの人がそう考えたのだ。

結論:「好き」はデザインするべきではない

で、結局「好き」をデザインできるのか?という事だが、「好き」は無闇にデザインしてはイケないモノだろう。

打算的にならず、もう既に無意識に没頭している事が好きな事であり、それが無い場合は子供の頃を振り返り親や先生に咎められても行った事、これが好きなこと、という事になる。

好きをデザインしようと思ってる時点で好きでは無い可能性が高い。