『ミルクボーイ』がネタにする「笑いの標的」は、多くの人が「共通のイメージを持つ」ことで成り立っています。つまり幅広い層に支持され、認知されているということです。『ミルクボーイ』が取り上げるブランドとは一体どういったモノなのか?「ミルクボーイのネタとブランドとの関係性」を考えてみたいと思います。
『ミルクボーイ』のネタは「誰もが知ってる」商材
先ず『ミルクボーイ』がネタにするモノ・コトは「皆が知ってる」が前提となっています。
漫才はそもそもそういったモノであるとうい側面もありますが、ミルクボーイの場合は今まであまり無かった(と記憶している)「特定の企業や商材」をネタとしている所がより身近な体験として感じられるため「笑える」、というコトなのかと思う。
ネタの標的はその「存在を意識しない」ほど日常に溶け込んでいる
ミルクボーイのネタの標的となった商材というと、『デカビタ』、『コーンフレーク』、『サイゼリヤ』、『志村けん』、など・・・」などが思い浮かびますが、それらは「誰もが知っている」、又はその「存在すら意識しない位に日常に溶け込んでいる」モノ(人)、というコトが理解できます。
またネーミング的にも絶妙に歯切れが良く、覚えやすい、という特徴も兼ね備えています。「デカいビタミンでデカビタ。以上」という事になりますが、『デカビタ』のネタは『ドデカミン』でも良さそうな所を、やはりシンプルで歯切れのよい響きの『デカビタ』が選ばれるのは、やはり理由があるのです。
ミルクボーイのネタの共通点は共感
小学校の時に皆を笑わせる定番ネタは「担任先生のモノマネ」であったと思います。
これは生徒全員が持っている担任先生のイメージが共通している事が前提条件であり、それが「強度の共感」となり「笑える」ということ、なのだと思います。担任の先生というと、10数年後の同窓会などでもやはり皆がネタにする位「強度の共感」要素なのです。
『ミルクボーイ』のネタはこの「強度の共感」を日本全土で共有するという事とも言えます。彼らの「ネタに選ばれる」には相当な「ブランド力」、「ブランドとしての一貫性」、同時に「端切れの良いネーミング」が必要ということが言えるでしょう。
「ブランド化した人」だからネタになる
固有の商品名と同様に『志村けん』をネタにしているのも、同様に「強度の共感」といえますが、これはつまり『志村けん』が既に「ブランド化」しているという事の裏付けでもあります。
ネタの流れで「志村死んだん!」と死亡説までに発展してしまい、これは相当尖ったセリフではありますが、『志村けん』というもはや日本人にとっては「空気の様な存在感」、しかも見ている人全員が「死んでない事」を知っているからこそ笑えるのです。
これは『志村けん』自体のブランド力が『デカビタ』同様に「空気の様な存在感」だという事、またそのレベルの「ブランド人」だからこそ許される、という事でなのでしょう。
「ブランド力」の強さは「如何に愛されているか」で測れる
実は『デカビタ』や『コーンフレーク』にしても『サイゼリヤ』にしても、ネタの中ではあまり褒められていません。徹底的にイジられて、どちらかと言えば「欠点とも言える特徴を笑いにのネタにされている」という印象もあります。
『デカビタ』がなければ『ドデカミン』でも『リアルゴールド』でも良いとか、『コーンフレーク』は「朝寝ぼけてるから食べてられる」など、一歩間違えば風評被害だと訴えられかねません。
しかし『ミルクボーイ』もメーカーも、果ては見てる側まで「問題無い」ということを肌で感じており、何となく分かっているのです。その理由は「愛されている」からでしょう。
「愛されていブランド」とはどういう事かというと、これはもう当たり前過ぎて存在すら意識しなような空気感、なのだと思います。もう家族な様な存在というか、わざわざ「愛されている」感じを出さなくてもズッシリと存在して、ズーッと前からそこに居た、という様な。
これが本当に世間から愛されている「強いブランド」なのだと言えます。
「世間に愛されている」というのはブランドとしは最高の評価であり、これをわざわざ言うのが野暮な位に世間に浸透しているという事なのです。
最後に
ブランドがあまりにも成熟して認知が行き渡ると、もはや「世間の空気のような存在」となり「もう、ずっとそこに在ったような存在感」が際立つことになります。
これこそが真のブランド力だと思いますし、企業の日々の真面目な取り組みの賜物なのだと感じます。
「ブランド」とは本来こうあるべきで、大げさなCMやタレントやイメージキャラクターで短期間で作りあげるモノではないのです。
今『ミルクボーイ』にネタの標的とされるブランドは「世間に愛される本当に強いブランド」なのかと感じます。